すべてのカテゴリ » 知識・教養・学問 » 知識・学問 » 芸術・言語・文学

質問

終了

―文章についての相談です―

≪愛の行方≫についての文章を書いている途中で、繋ぎに行き詰っています。皆さんのお知恵をお貸しくださいm( )m

文章は以下です▽

【純粋なる愛、純粋にそのものすべてが好きだというのは、その感情はむしろ信仰に近い。100%受け身であり得、かつ自分の抱く愛のために、何もかもを許されるという状態にある。純粋な愛の受け皿は対象のみであり、その濃度の強い感情は、決して自分に向かってくることはない。よって、愛に焼かれることもなく、引き裂かれるような思いをすることもない。強い愛の、そのすべてを受け止めてくれる絶対的な対象がおり、己はひたすら愛を育て、伝え、与えられるものを享受するだけだ。
 愛することは、やはり受け身である。愛を抱き、それを好きだと思うことは、どうなっても創造に至ることも、与えるという能動に転じることもない。愛とは、創造されたものを享け、与えられたものを受け取るときに出現する鏡のようなもの、いわば虚像、映されるものであり、あくまでも受動的なものだ。】
 ↓
≪A≫
(問題はこの辺なのですが…、≪A≫の部分で「受動→能動」へ転じさせる構想なのですが、これがなかなかうまくいきません(T_T)。
 能動もプラスでなく、マイナス要素(悲哀など)を含むもので、「悲しい能動的な愛」の論に展開したいのですが…)


(≪A≫で、「愛すること=能動」に転じたあと、)
 ↓
【悲しい能動だ。もとは純粋だった愛は、(????。この辺りも保留中…T_T)
 ↓
もとは純粋だった愛は、弱い自分の心をかばうための詭弁になりさがる。ここにおいて、純粋の愛、信仰は姿を消し~…(うんたらかんたら)】

-------------------------------------------------------------------
質問:
今悩んでいるのは、「100%純粋な愛(受動的な愛)」→「悲しい能動的な愛」に転じさせるための≪A≫の要素です。
どういう要素が、「能動」かつ「悲しみ」のある愛に変化させる触媒になるでしょうか。

どんなアイデアでもヒントでも欲しいです。(T_T)

  • 質問者:ルート・ゴ
  • 質問日時:2010-01-10 18:48:20
  • 0

「純粋な愛(受動的な愛)」、「悲しく能動的な愛」
は親子愛なんかについてもある意味では言えるかもしれません。

「100%純粋な愛(受動的な愛)」
血を分けて親子の関係となったもののあいだに当然のこととしてある愛、だとか。
その意味で受動で無条件の、親が子どもに与える情愛であり、子どもが親から受け親に与える情愛であり。
「悲しい能動的な愛」
親に愛されない子どもがそれでも親を愛そうとする愛、だとか。
また、子どもがやがて親になったときに、子どもに理解されない親としての愛や子への歪んだ愛だとか。

---------------------------------------------------------

愛の”形”や”種類”が、何なのかで、さまざまな要素が考えられると思います。

あなたの言われる”純粋な愛”というのは、”好き”、という感情に近いものなのでしょうか?
好きである、ことと、愛する、ということとは別物であって、
”恋と愛”とは別物であることと同一眼的な見方で、”愛”を語りたいのかな
・・・と私は解釈、というのか、思いました。
見当違いだったらごめんなさい。

”好き”とは、その対象に惚れ込むこと
・・・”好きだ”という気持ちそれ自体が自己を満たすので、好き返されることを必要としない行為。
純粋・無垢、盲目的であって、且つ受動的な行為
=純粋な愛=受動的な愛
という解釈を、前提として、してよいなら

”好き”という感情がすくすくと育ち、それだけで自己を満たしきれなくなったとき、
自己を飲み込むほどに大きくなったとき:
好きになり返されることを望む・・・何らかのリアクションを求めての行為
=「能動」

つまり、”好き”が純粋な”好き”の範疇を超えたときに受動から能動への流れが生まれ・・・。

また、こうして”好き”から”愛する”へと転化するときにも、
けれどもここで、”愛する”ということの実像が見えていないとき、歪んだ愛の形がとられるとき、
愛が自己本位であるとき:
対象を愛する自分もまた愛し返されることを望む・・・何らかの行為
=「能動」

けれども好きになってもらえない、けれども愛し返されない
=「悲しい能動」

”愛する”ことの”実像=本質・本来”とは、
愛の対象のために自己を犠牲にできること、愛する対象のすべてを受け入れ許し捧げること
・・・だとの解釈をしてもよいとすれば
その愛が、自己本位の愛か、相手本位の愛か、気付いていないことすらあって、
こうして生じた愛の”虚像=錯覚・誤解”から生まれるものの一つを「悲哀」とすることができるかも。

---------------------------------------------------------

二つの愛の種類・形を混在させると、もっと明確な要素へのアプローチができるかもしれません。

愛には、小我の愛と大我の愛とがあって・・・、
小我の愛とは、愛する対象も限られた、愛するその行為が自分本位な愛、自己愛。
(自己愛とは小我を満たすもの)。
大我の愛とは、愛する対象は万物であり、愛する行為に見返りを求めないこと。
隣人愛、自己を超えた、無償の愛。

人間は、小我の塊です。
人間が、個々として肉体を持つゆえに生じるものがそれですが、
肉体を超えて魂の次元の立ち戻ったときに、神の愛とも表現される大我の存在があります。

  • 回答者:好きと愛する (質問から7日後)
  • 1
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

「純粋な愛」というのは、敬愛、尊敬、恋愛、親愛でも、ひっくるめています。
これは特に「畏怖を感じるほどすごい人への尊敬のような愛」を思い描いての文章です。
(質問当時はよく分からなかったのですが、その方向へ持っていこうと思っています。)
愛の形によって、要素もそれぞれあるというご意見、確かにそうだと思います。
その中で何を選ぶか・・・迷います(><; 
親子愛については、今のところ子ども側の気持ちしか実感がなく、親の愛というものは、純粋であれ歪んだものであれ、想像でしか書けない主題・・・
小我の愛と大我の愛という言葉は初めて知りました。
大我の愛━隣人愛とか自己を超えた愛…超難解、ィャ超難関です(>_<;)
これについては、どうこねくり回しても、私には打つ手のないもの(T_T)
個人的に純度100%があまり好きでないのですが、小我に関しては、私は100%小我です。
頭ではそういうものも存在するのだと、理解はできるのですが、自分の感覚としてはサッパリなのです。
自分の思う「愛」(この文章ではですが)は、小我の愛、しかし無償の愛でもあります。
で、中盤、びびっときたんですが「好き」から「愛」への転化!!Σ(゜Д゜ ) これじゃなかろうか。
読みながら思いました。これこそが「受動→能動」へのスパイス、いや媒介、
Σあ、でもカンジンの「媒介」で・・・う━━━━━む><
イヤでもでも、「好きから愛へ変わろうとしている自分の気持ちにフタをしてはいけないのだ」というものが浮かんだのです、これを是非どこかに入れたいです。
「相手を許せなくなる」「憎しみ」がわく→「愛が返されないことの悲しみは、おのれに帰り、悲しみの刃が自分に深く突き刺さる。」
これが≪能動の悲しみ≫で、「もとの愛は、傷ついた自分の心を治癒するための詭弁になりさがる」「それは、もはや純粋な愛ではない・・・」
そしてめでたく!純度100パーの愛ではなくなるような気がするのです。

そして、これでは下がりっぱなので、構図としては
「100%愛」(上げ)→「純粋でなくなって」(下げ)「でも無償ではある=同時に詭弁」(下げ)→ 愛は別の形となり昇華。+゜.(上げ)
でいこうと思います。
悲しい能動のままでは終わるのもダメな気がしだしたので。

たくさん、いろいろな提案どうもありがとうございました。激感謝です。

並び替え:

これは完全にあなたの世界なので、他の人にどうこうできる問題ではないと思います。
お遊びで良いというのなら。

「その虚像がすくすくと育ち、己の実像を覆い尽くすほど大きくなったとき、」

  • 回答者:わっふるわっふる (質問から5時間後)
  • 1
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

回答ありがとうございます。提案 大感謝です><。

>「その虚像がすくすくと育ち、己の実像を覆い尽くすほど大きくなったとき、」

ここで言われている「実像」というのは、「自己=受身=実像」のほうなのですね。(「愛の対象・愛を抱かせるもの」≠実像」)

覆い尽くすほど大きく【「自己=実像」≦「自己=虚像(愛の受身)」】なっていったとき、
  ↓
「悲しい能動」が生まれる・・・というふうに繋げられるかもしれません。

この流れで「悲しい能動」になる要素は一体何か、ということを色々考えてみようと思います。
ありがとうございました。

関連する質問・相談

Sooda!からのお知らせ

一覧を見る