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質問

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どんな罪を犯した人間でも、罪とされている行為をしたい感情は本人が受動的に生んだもので、育った環境や、DNAとも関係している、その欲求を我慢できるかどうかは、人によって大きくばらつきがあり、統一された法律で裁かれ、我慢する感情が大きい人、小さい人は判決の程度に影響せず、それを裁判にかかわる人たちに説明できるのか、また弁護士に伝えるにしても、他人に伝えるには言葉にしなくてわならず、感情を言葉で正確に説明できるのかが疑問です。最も精密でなければならないはずの一つの法律というものに違和感があります。
このような疑問を持たれた方、またご自身がどう考えて納得されたが聞きたいです。

===補足===
今の法律がベストではないが、現時点では社会全体では最小限の被害であり、全員違和感がなくなる訳ではないが、ほとんどの人間がほどほどに納得できるものであり、ややこしさで今よりもっと混沌になるより現状維持が良いと思っているのは前提です。シンプルさは大切だと思います。

  • 質問者:あき
  • 質問日時:2010-11-24 20:12:04
  • 0

>どんな罪を犯した人間でも、罪とされている行為をしたい感情は
>本人が受動的に生んだもので、育った環境や、DNAとも関係している

これは「自由意志」「個」の否定になりますね。
罪がこのようなものであれば、功も同じように受動的な他への反応になります。

他者と自己を区別する意味も消えてなくなってしまいますね。
当然、財産やその他すべての権利もまた消えてなくなります。

そうすると、罪に対する罰や反省の度合いなどとは無関係に
いつでも社会秩序の都合で誰かに処罰や命令を与えてかまわない、という
結論になってしまうかもしれません。

そもそも、そういう思考法の質問者様がなぜ
「この質問は『あき』によってなされました」ということを表記する必要があるのかが
まったく理解できません。

>他人に伝えるには言葉にしなくてわならず、
>感情を言葉で正確に説明できるのかが疑問です。

こうお考えであれば、現在の法制度のように
量刑主義+教育刑に、さらに情状を加味するようなもの自体に
違和感を持たれるでしょう。

教育刑(罰は反省するまで。罪の重さとは無関係)や情状は
犯罪を犯した個人の内部に存在するものであり、他者からは計れないので
単純な量刑主義のみに絞るべき、となってしまうでしょうね。

>ご自身がどう考えて納得された

この問いについては、
「私は個の功績や財産その他の権利を有すると考えるので
当然ながら罪も基本的には個に帰結する。
ただし情状を酌量しなければならない状況もありうる」と考えます。

罪に対する罰としては、現状よりも教育刑の比重を上げるべきと考えます。
「情状酌量の余地のない強姦魔は懲役よりも去勢」
「同じ罪状の再犯者は教育効果が見込めないため原則処刑」
などという形ですね。

===補足===
>自由意思について。自分が100の選択肢をどれでも選べるから自由なのではなく、
>選ぶ段階ですでに100しかないので自由にみえてるが
>本当の自由ではないという事です。

やはりそうすると功・業績(+評価される好意)や+でも-でもない行為も同様に
本当の自由ではありませんよ。
それは自由意志の肯定・否定とはあまり関係のない話ではないでしょうか。

教育刑というのは、罪の重さや種類とは無関係に
反省(=再犯の可能性がなくなる)までを刑期に
反省させるための行為を刑の内容とするものです。

罪に応じて罰を与える、という量刑主義とは観点が全く異なり
反省して、二度と犯罪を犯さないようにするにはどうしたらいいか、が全てです。

窃盗や強盗などの、金が足りないための罪に関して
手に職をつけさせるような職業訓練を課すのはこのためです。
ただの量刑主義なら、刑罰に職業訓練を施す必要はありません。
単純な処罰か、経費を賄うための労働でかまわない、ということになります。

ですから再犯の時点で「教育効果が認められない」ということになるため
「初犯時とは別の」情状酌量が認められる場合でない場合
教育効果の認められない存在になり、処刑となりますね。
懲役を何年しようが無意味、ということになりますので。

上記のように、教育刑は再犯可能性に応じて刑を決めることになるので
考え方によっては報復殺人よりも微罪の常習者の方が問題視されます。

皮肉な話ではありますが、一度家族を殺害された人間の復讐というのは
「もう一度新しい家族を手にしない限り」再度の報復殺人は考えられないため
再犯性は非常に低い、とも言えるからですね。

>個は今のところ世界人口分あるが、
>その中で本人与えられたに個に対して罪を負わせる事自体疑問です。

繰り返しますが、罪が負えないなら功績も得られず、
どちらでもない行為もまた、個有のものではなくなります。
これは言い換えるとその個が「替えの効く存在」となるわけです。

責任を負うというのは権利に対する義務というよりも
権利の一部として内在するもの、与えられたものです。

特定の何かに対して、責任がない=それをどうこうする権限がないということで
そもそもその何かは、個に帰属するものではないということになります。
個に帰属しないということは、個に権利がないということになります。
つまり責任も与えてもらえないというのは権限の剥奪でもあるわけです。

オンリーワンにはオンリーワンの権利(当然責任を含む)があるというのが
個の尊重になるわけで
責任=権限の否定は、そのままオンリーワンの否定になります。

すべての事象が特定の個に帰属しない、というのは
決定論(すべては世界の始まりから決まっている)や
すべては神のもので、罪も権利も人間には存在しないという宗教的な発想ですね。

  • 回答者:匿名 (質問から4時間後)
  • 0
この回答の満足度
  
参考になりました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

自由意思と個を否定しているのではありません。自由意思について。自分が100の選択肢をどれでも選べるから自由なのではなく、選ぶ段階ですでに100しかないので自由にみえてるが本当の自由ではないという事です。個について。個にばらつきがあるにもかかわらず、細部まで法律に組み込むことができないのではないかという事です。教育刑を適応しても、情状酌量がある場合でも無罪にはないらないんですね。自分が強姦魔と同一人物になり、しかし記憶として元の自分が残っているとして、再度強姦をしたとして元の強姦魔が罪になるのがよく分かりません。個は今のところ世界人口分あるが、その中で本人与えられたに個に対して罪を負わせる事自体疑問です。

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