私の場合、障害のある、あるいは境界域の、お子さんの、それから親御さんの、サポートをしている立場です。
そして、発達障害の当事者でもあります(アスペです)。
今日も仕事で子どもと、そして親御さんとお話をしてきたのですが、どこの親御さんも、やはり、心を痛めていらっしゃるな、と、やっぱり、という思いでした。
テレビで、ネットで、結構無責任な取り上げられ方をしています。
何が本当なのか、直接的なつながりがあるわけではありませんから、わかりません。
でも、他人事ではない。ただ、とにかく、そこまでお母さんは追いつめられてしまっていたんだね、ということを、悲しいことだね、と、話し合っていました。
また、お父さんも、どのような関係でいらっしゃったかはわかりませんが、おつらいだろう、と思います。
詳しい事情がわかるわけではなく(別に知りたくない、というか、そういうことを書きたてて喜ぶメディアがきらいですから)、なんともいえませんが。
一方で、もちろん、殺してほしくなかった、と、思います。
障害がある(あるいは、境界域を含め、何らかのしんどさのある)子どもを育てるということが、どれだけ大変なことなのか、もちろん私自身は親ではありませんから、わかるといってしまってはいけないのでしょうけれども、それでも、かなり身近に長い間見ています。
強度行動障害状態の小学生のお子さんを前に途方にくれるお母さんが、毎日が地獄だと言った、そんな現場にいたこともあります。
何もできない自分でしたが…でも、見るだけは見てきました。
だから、ある程度はわかると思っています。
大変なことです。
でも、殺して欲しくない。
障害があることって、そんなにいけないことなの?と、当事者の立場からは、いうより他ないから。
かわいそうだから、と、殺す、ということが、特に昔は多くあったと思います。
でも、障害があったって、毎日、楽しく生きさせさえしてくれたら、楽しいです。
感覚過敏で、もう今日なんか電車の中でわめきたかったけど、でも、だからって可哀想だからって殺してもらっちゃ、やめてよ、っていうしかない。
ティーンエイジの頃は不適応でぼろぼろでしたし、10年ちょっと経った今でも、その後遺症が残っているくらい。
でも、殺してくれるな、って、思います。
自分で死のうって思ってしまったことは、過去何度もあったけど、それも結局乗り越えてきましたし、多分、乗り越えるために支えてきてくれた人が、沢山いるんだと思います。
親だって、こんな育てにくい子どもを、まあ何とかかんとかいいながらも見守ってきてくれて。
特に、アスペだろうという話になってきたのがハタチすぎてからですから、それまで、意味不明だったろうと思います。
まあそれでも、こんな齢まで生きられて、自分のことがやっといろいろわかるようになって、それを活かして何かをするということも少しずつ考えられるようになったし、周りに自分でサポートを求めることも、少しずつできるようになってきました。
自分とよく似た(つまり自閉圏の)友人や恋人だとか、あるいはそういうタイプではないけれどよくわかってくれる友人、その他いろんな人に支えてもらってて、今からやっと自分で生きていこうかなっていう感じです。
いい先生にも出会ったりとか。
なんか、そんなことを思うと、まだ小学生やそこいら、自分が多数派の人々とはどこかちがうということもわからない可能性が高い子どもを、殺してくれるな、って。
可哀想だとかいわないでよ、障害があろうとなんだろうと、楽しく生きることは可能なのに、生きてることそのものを否定されたら、私たちはどうすればいいの、って。
自分で、生きてることが可哀想だと思うようになったら、自分で死にますから。
それまで、生きるのを邪魔しないでやってよ、って。
…とかとか、考えたりしつつも、結局やっぱり、親御さんをそこまで追い詰めてしまった社会のあり方とか、いろんなことも、思いながら。
う~ん…まとまらない。すみません。
あと、匿名です、ごめんなさい。
親ではないですけれど、ちょっと出すと、微妙な立場ですし。
…いや、どうなんでしょう、支障ないのかな、どうかな。
そういう判断って難しいですから、とりあえず出さないでいます。
あと、障害の害という字は…あえてこだわりたくないので、普通に使っています。
別に、害があるっていう意味で使ってるわけじゃないし、あるいは逆に言うと害のない人間なんて居ないんですから。
私が他人の害になることなんて数多あるだろうし、他人が私の害になったことだって山ほどありました…。
自覚の有無は、違ったかもしれませんが。