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中川昭一大臣のお父上中川一郎さんはなぜホテルの1室で自殺したのでしょうか?

  • 質問者:匿名希望
  • 質問日時:2009-02-17 12:04:37
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個人的には、好きな政治家でしたて。
ただ、当時、鈴木宗男さんと、対立して、
資金集めも、たいへそうだったそうです。
最後は、ノイローゼ状態でした、

  • 回答者:たろべい (質問から11時間後)
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総裁選の獲得数が、予想より少なかった為。又、政治資金の金庫番をしていた鈴木宗雄しが、地元で自分より力持ち、距離を置き始めて、選挙に出るのを気にしていたからという説もあります。個人的には、好きな政治家でした。貧しい家庭に育ち、苦労して議員になりました。

  • 回答者:宗ちゃん (質問から10時間後)
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何分にも政治の世界のことですから、あの世まで持っていかなくてはならない秘密というものがあるのでしょうから本当のところを知っている人はいないのかも知れません。
1983年でしたか、当時は田中派が軍団と呼ばれた時代で、そのほかの派閥は連隊と呼ばれていたと思います。
その中でも一段と小さい中川派は大隊と呼ばれていたと思います。
ちなみにこれらは旧日本陸軍の軍隊の区分けで、大隊は3、4個中隊、連隊は2、3個大隊、旅団は3、4個連隊で構成されていました。
軍団とはその上の師団を指す言葉で、旅団よりも一段と大きく、独自に作戦行動をとれる舞台を指しています。

田中派が軍団と呼ばれたのは、その結束力の強さもさることながら資金調達力がずば抜けていたことも理由になっています。
その当時の自民党総裁の椅子はニッカ、サントリー、オールドパーという言葉があったように、金で買うものというのが常識とされていました。
したがって派閥の領袖、すなわち総理総裁を政治家にとって集金力は政治的手腕以上に重要なものだったのです。

そんなわけで中川氏も資金集めに必死になっていたといわれました。
当時の週刊誌は「資金を集められなかったことず自殺の引き金になった」と報道しています。

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「北海のヒグマ」と言われた大衆政治家の一郎さんのファンでした。総裁選を目指し福田派からの独立による自前の派閥維持のための金集めなど心労が絶えなかったようです。確かに「宗男クン」との関係も取り出されましたが、最後はノイローゼのようだったですね。

私は帯広と釧路で何度も選挙の手伝いをしました。
義理と人情に熱く、北方領土のことをいつも気にされていた温かい政治家でした。

  • 回答者:匿名 (質問から3時間後)
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それはこういうところで訊いちゃまずいでしょ

  • 回答者:taboo (質問から2時間後)
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個人的には、好印象な政治家でした。
記憶では、総裁選で惨敗(裏切られた?)した為に
精神的に落ち込んだ印象を持っています。
当時は、今と違い総理候補が多く居たため
勝ち残れなかった非業の政治家でした。

  • 回答者:匿名希望 (質問から2時間後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

いろいろ説があり、ひとつは第一秘書の鈴木宗男氏の出馬問題と囁かれていました。
結局は死後、子息と秘書ともに出馬し当選、ともにやじ将軍とも言われたような記憶がありまあす。

  • 回答者:真偽は… (質問から31分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

前年の総裁選での惨敗の影響が指摘され、総裁選後、睡眠薬を服用していたという
でもその死にはいくつかの疑問点があるともいわれています。
こちらより引用しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E4%B8%80%E9%83%8E

  • 回答者:匿名希望 (質問から6分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

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