ほとんど同じ感覚だと思います。
私は可能の意味と受動の意味とを分けるという観点から、小学生ぐらいの頃から「られる」を受動の意味に用い、「れる」を可能の意味に用いてきました。
そもそも所謂「ら抜き言葉」という事が盛んに言われるようになった時から、「ら抜き言葉=誤用」という説には深い疑問を持っています。
以来テレビなどは注意して見聞きしていますが、インタビューなどで老若男女を問わずたいていの人達「ら抜き言葉」を用いており、私が見聞きしてきた限りではほぼ全ての人達が「ら抜き言葉」を用いています。
テレビのテロップではインタビューの発言に反して「らを抜かない言葉」にしているのは滑稽にさえ思えます。
そもそも何をもって正用法とするかも軽視できない問題です。例えば私が小学生の頃に「重複」は「ちょうふく」と読むのが正しいのだが「じゅうふく」と読むのも間違いではない、と教えられました。ほぼ同様のことが「ら抜き言葉」にも言えると思います。
因みに私は生まれも育ちも東京都の渋谷区です。方言でしょうか?
===補足===
忘れました。
まぁ、正用法というのもあながち否定し切る訳ではありませんが、論理的である事や表現の適切性の方が遥かに重要な事だと思います。そうした問題をおろそかにして「ら抜き言葉=誤用」論を金科玉条に言い立てるのは本質的でないと思念します。
「日本語そのものが非論理的である」のではないという事については講談社現代新書の「日本語と論理」という本で、大学(院)で論理学の教鞭を執っておられた高名な哲学者が述べておられるので、興味がおありでしたら参考にしてください。
表現の適切性について最近目にした例を:
一時期、国政選挙の時に各政党がテレビに広告を盛んに流していた頃、言葉を商売にしている、広告批評の元(多分初代)編集長のY.A氏が、テレビで、政党の広告を「CM」と呼びまくっていました。勿論CMとはcommercial messageの短縮形で「商業上のメッセージ」の意です。しかるに政党のメッセージはpolitical message「政治的メッセージ」とも言うべきものですから決してCMなどではありません。困ったものです。
それから、東京大学大学院で教鞭を執っておられる姜尚中先生がテレビで、二世・三世の世襲政治家が多い事を問題にして「政治家のマーケット」という表現を使っておられました。私は「おい、おい、政治家にも市場原理を導入していいのか~?」と思ってしまいました。因みに私は姜先生には好意的なので(左翼?)「弘法も筆の誤り」という感想です。
この2つの例は生放送なので言ってしまった以上取り返しがつきません(事後の訂正は可)が、次のような収録ものの番組の例もありました:
NHKの英会話の番組で、アシスタントの若い女性が「ニュアンス」という語を、本来ならば(英語教育の番組ですから)「ニュ」のところにアクセントを置くべきところ、どこにもアクセントを置かずに、例えば「番組」という語と同じ抑揚で言っていました。番組の性質上、及び収録番組である事から、「ニュ」にアクセントを置くように撮り直しておくべきだと私は思いますが、天下の(?)NHKがそのまま放映していました。まぁ、ご愛嬌というところですかね。
余り好い例ではなかったでしょうか?でも問題の所在はお分かり頂けますよね?