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デフレ脱却して好景気にするのは簡単ではないでしょうか。

1 済州島周辺で漁業をしていた韓国の船舶を漁船に擬装した武装船で警告なしに機関銃により射殺、拿捕。

2 韓国人捕虜には地獄の様な拷問を繰り返す。328隻を拿捕、漁民3929人を拉致監禁、韓国人44人を虐殺。

3 それをネタに条約という賠償金をせしめる。国家予算の何倍もの額を。

上記は、日本がやられたことそのものであったことを知っていましたか。こうして竹島が盗られたようです。

===補足===
実際に日本がやられたことは次の通りです。
(引用)
『竹島を韓国に奪われた経緯』 韓国は竹島周辺で漁業をしていた日本の船舶を漁船に擬装した武装船で警告なしに機関銃により射殺、拿捕。日本人捕虜には地獄の様な拷問を繰り返した。 328隻を拿捕、漁民3929人を拉致監禁、日本人44人を虐殺。

で、それをネタに 日韓基本条約という賠償金をせしめたということですね。


韓国による軍事占領

1951年(昭和26年)8月10日にラスク書簡によって「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示された[21]。その半年後の1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国大統領李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、同時に近海を含む李承晩ラインを設定。1952年7月26日、アメリカ政府と日本政府は竹島をアメリカ軍の訓練地として日本国が提供することを約する協定を締結[22]。翌1953年1月12日には韓国は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示し、同2月4日には第一大邦丸事件が発生、船長が韓国軍に銃撃を受け死亡。同4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯し、以降占拠を続けている。そのため、現在も日本政府の施政権は及んでいない。
日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続け[23]、また国際司法裁判所への付託を韓国側に幾度も要請してきたが、韓国側は「領土問題は存在しない」と言って付託を拒否し続けている。2006年にはウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員が国際法上の領土紛争にするよう提唱したが[注釈 5]、進展しなかった。1954年以来日本が要求し続けた「国際的な解決」を韓国が受け入れた形となるはずだった。


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まずここにある

第一大邦丸事件

これを日本人は覚えておくべきです。

第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、1953年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して死亡した事件である。


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で 第一大邦丸事件の 状況・経緯

拿捕されるまで


1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。
同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。
取調べが始まるまで [編集]
同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の高医院に収容された。高医院とは名ばかりの医院で病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。
しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。


帰国まで



2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。
取調べで韓国側は拿捕地点は翰林より9マイル付近であったと主張。日本人船員側が昌運号のコンパスの時差及び速力の矛盾を指摘したところ、韓国側に両者の主張の中間をとろうと言われて、13マイル付近を拿捕位置として捺印させられた。同時期に取調べを受けていた第二大邦丸の通信士によると、拿捕地点は翰林より30マイルである。
2月12日に一行は済州に送られる事になったが、誰も漁撈長の遺骨を持ってきていなかったため、遺骨を取りに行くことを要求したが、警察署長に拒否された。船員が移送用の車に乗ることを強硬に拒否したところ、1人だけ残して、次の日に運ぶ事を認められ、残りの船員は車で済州へ運ばれた。
同日23時頃、船員は済州警察査察課第二係に引き渡され、食事を与えられずにそのまま留置所に入れられた。この留置所も4畳ほどで、しかも他の韓国人と一緒に入れられていた。この留置所では粗末ではあるが食事は与えられた。
済州での取調べでは、李承晩ライン侵犯との韓国側からの指摘に対し日本側は、同ラインは韓国が一方的に定めたもので国際法上認められていないと反論した。クラーク・ライン侵犯との非難に対しては、米国公使より作戦の妨害にならなければよいと説明されていたことを伝えた。この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。これは群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。
この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。しかし、海図を出して調べるときには丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。
2月15日午前7時頃に、船員は外事主任より今日帰国させる旨通告され、中型ジープで水上署まで移送された。その際に査察課の課長から、「死亡した人に対しては非常にすまない。今韓国は戦時下であるので、君たちに食糧をやりたくてもやれないのだから。あまり内地へ帰っても韓国のいわば官憲の悪口を言わないようにしてくれ」との旨の挨拶を受けた。同日13時に船体の受け渡しがあり、同日済州を出航、アメリカ海軍のフリゲート「エバンズビル」に護衛されつつ、2月17日17時半頃に佐世保に入港、2月21日に佐世保を出航して、2月22日7時に福岡に帰港した。

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1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに韓国により、このラインを越えたことを理由に日本漁船328隻が拿捕、

日本人44人が死傷(うち5人が死亡)、3,929人が抑留された。竹島近海では16人が死傷した(これを韓国側は日本は痛手を負ったとしている)。

韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。

竹島 (島根県) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)


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その後 

独島義勇守備隊

独島義勇守備隊(どくとうぎゆうしゅびたい、朝鮮語:독도의용수비대/獨島義勇守備隊)は大韓民国が領有権を主張する竹島を守備するため結成された民間義勇隊。韓国では竹島を独島と呼び、この義勇隊を英雄視している。1953年から1956年まで活動し、竹島近海の日本船舶の拿捕や日本の海上保安庁巡視船に機関銃弾を撃ち込んだ


結成

鬱陵島東南約90キロにある竹島は、韓国では行政的に慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑に属しており、竹島から韓国が撤去した「島根県隠技郡五箇村竹島」と明記された標木を鬱陵警察署で見た鬱陵島出身の韓国陸軍の傷痍軍人ホン・スンチルが韓国警察から武器の供与を受けて1953年に竹島の韓国側保持を目的に民兵組織を結成した[1]。朝鮮戦争が続いており、韓国軍や韓国警察に余力がなかったためである。ホン・スンチョル隊長以下、33人の隊員が集まり、大部分が傷痍軍人・警察官で、純民間人4人も含まれていた。


活動

独島義勇守備隊は1953年4月20日、初めて竹島に駐在した。常駐ではなく、定期的な駐在である。同年6月27日、日本の巡視船2隻が来島して6人いた守備隊員を島から追い出し、日本領の標識を立てている。しかし、巡視船はそのまま引き上げたので、義勇守備隊が再び島に戻った。このことを聞いた李承晩大統領は慶尚北道警察に指示して迫撃砲1門と弾100発を義勇隊に支給させた。義勇隊はこのほか、M1小銃とカービン銃で全員武装していた。さらに直射砲1門も配備されていたとする説がある。
1954年4月21日日本の巡視船が来島したため交戦状態が発生し、巡視船1隻を撃沈したと主張しており、日本側の記録でも巡視船が発砲を受けて損害を蒙ったことは確認できるが、撃沈は確認できない。また日本側は発砲した組織を韓国「官憲」と認識していた。隊員が何らかの制服を着用していたためだろう。また守備隊はその後も日本巡視船との交戦があったと主張し、日本側記録でも1954年11月30日に日本巡視船が竹島から砲撃を受けたとする。
1954年、洪淳七隊長が東島の岩肌へ「韓國領」と彫らせる。

 
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こうやって軍事占領したあげく、その拷問や民間人虐殺をネタに賠償金を脅し取ったのが

日韓基本条約という 戦争もしてない国になんで賠償金はらわされるんだ???

というトンデモ賠償金の支払いです。


 経緯 ↓↓↓↓

忘れられてしまった悲劇―第一大邦丸事件と第三清徳丸事件
http://d.hatena.ne.jp/teru0702/20120820/1345437644
http://ameblo.jp/toukantenshi/entry-11343583423.html

  • 質問者:匿名
  • 質問日時:2013-09-29 19:58:35
  • 0

ここまでやりたいほう題されて
政府は一体何をしているのでしょうかね。
しっかりして欲しい物です。悲しくなります。

  • 回答者:匿名 (質問から6日後)
  • 0
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

政府は、韓国の国家予算の何倍もの援助をしてあげています。

並び替え:

恐ろしい事件の数々ですね。日本は事実を提示して賠償金を請求するべきですね。

  • 回答者:匿名 (質問から2日後)
  • 0
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

事実が全く知らされていない

しらなかったですけど、日本じゃないでしょ?

  • 回答者:匿名 (質問から15分後)
  • 0
この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。
お礼コメント

日本がやられたことですよ。こうして竹島がとられ、日韓基本条約を結ばされたのです。

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