回答してくれたみんなへのお礼
みなさん、ご回答ありがとうございました。
大日本帝国は満州(中国東北部)の農民から、土地を安い金額で半強制的に同意させ買収しました。このため敗戦後現地の中国人から、残忍な仕返しを受けます。
日本の入植者の中には、半強制的に安い値段で取り上げた土地だという事を知らない人もいました。
また自力で荒地を開拓して入植した方々もおられた事を、日本人の名誉のために付け加えておきます。
しかし満州国崩壊後は、荒地を開拓した日本の入植者たちも、中国人たちに殺されています。
この辺の事情は731部隊の告発で有名な左翼の作家・森村誠一さんの「夕映えの殺意」に描写されています。
「(だまして)武装解除させた裸の開拓民に(中国人の)暴徒は襲いかかった。飢狼(がろう)
の群れに襲われた羊のようだった。石を投げ、木槍で渡り合う抵抗も束の間、押し寄せる暴徒の前にもみ潰(つぶ)された。
暴徒は無抵抗の女子供の区別なく、まるでニワトリでも絞めるように殺していった。
鎌が草でも刈るように子供の首を切り落とす。鉈(なた)が女の頭に振り下ろされる。あまりに突きまくったために先端が丸くなった木槍を、今度は棍棒(こんぼう)にして振り回している暴徒。
いずれも返り血に染まって、まさに悪鬼のようであった。虐殺の後には根こそぎの掠奪(りゃくだつ)が始まった。
(逃げ出した日本人たちは、中国人暴徒の執拗な追撃に)ついに私たちは川岸に追いつめられた。食糧も武器もなかった。
全員体力の限界に達して、とても逃げ切れられないから、ここでみんな自決しようということに決まった。
せめて死体を辱(はずかし)められないように、女たちは川の中で死ぬことにした。家族に死ぬための時間を稼いでやるために、男たちは最後の力を振り絞って、暴徒に抵抗した。
その間、幼な児たちは母親によって首を絞められて川に投げ込まれた。子供たちも、泳げないように後ろ手に縛って次々に川へ放り込んだ。
子供の始末をつけた女や老人たちが、子供の後を追って川へ飛び込んだ。その女を追って、暴徒が川の中まで入り込み、陵辱(りょうじょく)するために岸に引きずり上げようとする。
彼らの流す血の色によって川水は赤く染まった。この世の眺めではなかった」
森村誠一著「夕映えの殺意」より抜粋
・・・満州に入植した日本の開拓者たちは、ほとんどが満州国の発展に身を捧げようとした罪のない人たちです。
「侵略であることを言い聞かせて説得し、財産を没収して日本に強制送還すればそれですむものを」と、非常にやり切れない気持ちです。
左翼の人たちは大日本帝国の戦争悪を強調するために、こうした悲劇には知らん顔です。
ただ「中国人とて色々います。全部が全部日本人憎しだったら残留孤児なぞ生き残り得ません。」と指摘された回答者がいらっしゃいますが、これはその通りだと思います。満州(中国東北部)の人たちの中には、日本人孤児を育てて下さった方もいらっしゃいました。
その内容は、自分の子供と変わらないほどの愛情を注いで下さった方もおられますし、単に召使としてこき使った者、育ててはくれたけど成長すると愛人にしてしまった者、老後自分たちの世話をしてくれることを期待した者とさまざまです。
また漫画家のちばてつやさんの家族のように、満州人の友人に匿(かくま)われ、無事日本に帰国できた幸運な方もおられます。ちばてつやさんは外に遊びに出ることが出来ないため、室内で漫画ばかり描いており、とうとう本職の漫画家になられました。
「あしたのジョー」「ハリスの旋風」「ちかいの魔球」「島っ子」「1・2・3と4・5・ロク」「おれは鉄平」「のたり松太郎」「みそっかす=『あかねちゃん』としてテレビアニメ化」「紫電改のタカ」「あした天気になあれ」「少年よラケットを抱け」などの諸作品は、みなさんもお読みになったことがあると思います。
もちろん弟の漫画家・ちばあきおさん(三男・「キャプテン」「プレイボール」で有名)や、漫画原作者の七三太朗(四男)もいました。
ちばてつや・ウィキペディアより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%81%A6%E3%81%A4%E3%82%84
1939年(昭和14年)東京築地生まれ。生後すぐに日本を離れ、2歳の時に、旧満州・奉天(現中国・遼寧省瀋陽)に渡る。
印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた。
1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少時代をすごした