私も同じ事をずっと考えていました。
数年前、どこかのサイトで見かけ、なるほどと感心したことを書きます。
その青年は、同じ悩みを持ち続け生きる気力が無い状態になり、
何かを発見できればという思いで青年海外協力隊の井戸掘りに志願したそうです。
そこでは、肝心の水はもちろん食料も少ない状態なので、
次々と子どもは生まれても、そのほどんどが死んでしまい、
そのたびに家族は苦悩の涙を流すという繰り返しだったそうです。
水や食料の少ない状態で次々と産み続ける現地の人に対して疑問を感じながらも
日々過酷な状況で作業をこなしていかなければなりませんでした。
日本人とはいえ、極端に食糧事情が良かったわけではないようです。
ある時、青年は悟ったのです。
「何のために生きているのか?」という疑問を持つということ自体が
恵まれすぎた人間だけが持つ贅沢以外の何ものでもないということに。
確かに、当たってるなぁ~と私も深く感じました。
ここからは私の感じた事、また過去に何かで読み納得したことを書きます。
過去の日本でも戦争時代に自殺志願者は、ほぼ居なかったそうです。
いつでも死ねる状況であり、生き残ることが難しい状況で
あえて死にたいと考える脳が働かなかったという事もあるでしょうが、
生きる事に対してエネルギーが(知恵も時間も労力も)
必要だったため余分なものが入り込む余裕が無かったのではと思います。
本来、人間は動物であるのだから、生きる目的といえば繁殖しかないのです。
上記の青年の背景でも、想像ですが避妊という選択肢が無かったのかもしれないですし、
あったとしても、逆の発想というか、生き残る子の数が少ないのなら、
数を産む方が有利という考え方もあるわけです。
毎日あたりまえに食べることができ、快適な生活環境で過ごせる今の日本人は、
贅沢病に掛かってしまっているのでは無いでしょうか。私も含め。
生きる理由を探さなければ満足できないという贅沢病です。
今から30年前、私はスーパーマーケットでアルバイトをしていました。
当時、ほうれん草1束が258円位していました。
特売日の長蛇の列にならんだお客さんは、
1kg 398円の上白糖、
1.5L 798円のボトル入サラダ油、
250g入 1098円のインスタントコーヒーを持っていました。
当時、1ヶ月の平均所得はどれ程だったのかは、わかりませんが、
(想像するに、30才代後半で手取り20万円は無かったのではと思います。)
現在に比べると所得の割に食費が非常に大きかったと思うのです。
当時、車の免許証を持っている女性はかなり少なかったですし、
熱を出した子どもを学校へ迎えに行く親は歩きか自転車というのが
当たり前でした。必然的に熱のある子供は病院まで歩いていく、
または、親に負ぶってもらう、自転車の荷台に乗せられるというのが
当然の景色でした。
子供に食べさせていくのが、やっとという状況の中では、
工夫をしてコストを下げる努力が必要になってきます。
生活すべてにおいて、必然的に時間とエネルギーが
必要だったのではと想像します。
質問者さんの相談とは違いますが、その頃の学校では、
登校拒否をしている子供の数が極端に少なかったです。
地域によっても違ったのかは、わかりませんが、
私の小中高を思い出してみても、高校の時に1名居たくらいでした。
現在、私の身の回りに何人も不登校の子供達がいます。
すべてが、そうだとは言いませんが、これも贅沢病の一種では
無いのかなと疑問を持つことがあります。
他の方もたくさん書いておられますが、
本来、単純に生きることを楽しめるというのが理想なのでしょうが、
「生きる楽しみを見つける為に生きている」でも良いでしょうし、
私自身は、一生かけて、「生きてて良かった」と思える人生を
自分で作っていかなければと考えています。
残念ながら繁殖の予定はもう無いですので。
贅沢贅沢と失礼なことを書きましたが、私自身も同じ悩みを持ちましたし、
何も考えないよりは、多くに気付ける、また考える事の出来る人は
知恵を働かせて工夫の出来る「人間」として生まれた事の証明なのでしょうね。
なんだか意味がよくわからない表現ですが、要は鶏と卵みたいなもので、
人間だからこそ、生きるという単純なことについても、
悩まなくてはならないという事だと思います。
- 回答者:酢豚のピーマン (質問から12時間後)
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