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湾岸戦争って何ですか?
アメリカがからんだ戦争ですか?
日本は参加しましたか?

  • 質問者:匿名
  • 質問日時:2010-08-03 00:19:51
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その昔、イラクとクウェートはオスマン帝国として一つの国でした。
しかし、世界の覇権と石油利権を求めたイギリスによって
クウェート地域の有力部族が担ぎあげられ、傀儡状態で
独立させられました。

その昔、日本が滅亡した清朝皇帝の子孫 溥儀をかついで中国国内に
満州国を作ったのと似てますね。

イラクにはクウェートをイギリスの謀略によって奪われたという意識が
ずっとあり奪還する機会をうかがっていました。

石油資源もさることながら、ペルシャ湾がほとんどクウェートによって
ふさがれていて交易上の不都合が多大にあったことも
クウェート奪還に駆り立てました。

しかし、イギリスの後ろ盾がある時代にはそれが叶わず、
やがてイギリスの力が弱まり各植民地が次々に独立するに至って、
クウェートもイギリスからの独立をしました。

折しもイラクにサダムフセインという独裁者ながらも強力なリーダーシップを
もった指導者が登場し実権を握るとともに、イランとの戦争でイラクの財政が
非常に逼迫したこと、クウェートとの間に両国の間にある油田の利権問題で
揉めたことが引き金になり、イラクは悲願であったクウェート併合に乗り出しました。

日本では当時、突発的にクウェート侵攻が行われた様に報道されましたが、
それは西側諸国の情報操作があったように感じます。
歴史的事実に照らせば、戦争の火種は以前からあり、イラク側にも一定の理由が
ありましたが、報道ではイラクを悪を決めつけ悪魔のように報道しました。
もちろん、平和に暮らしている国に戦争をしかけていい道理はどこにもありません。
しかし、それ以前のイギリスの植民地政策に端を発しているという事実は
隠されていたように感じます。
日本の満州国設立は各国から非難され二次大戦でボコボコにされたというのに、
イギリスが作ったクウェートは欧米諸国の利権から存続され残されたのです。

当初、イラクはアラブ諸国内の問題であり、またイランとの戦争では
アメリカがイラクを支援していたこと、米国外相も領土問題には関与しないという
姿勢を表明していたこともあり、アメリカ軍自体が参戦してくるとは考えていませんでした。
西側諸国が支援などを関与をしても、なし崩し的に併合できると考えていました。
しかし、結果的に米軍が参戦してくるに至り、圧倒的な戦力差によって
イラク軍はクウェートより撤退し、イラクの敗北となりました。

日本はこの戦争に参戦していませんが、当事国のアメリカより戦費を拠出しています。

  • 回答者:匿名 (質問から14時間後)
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1991年1月17日午前3時(アメリカ東部時間16日19時,日本時間17日9時)頃、
アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに対して攻撃を開始し、湾岸戦争
が始まりました。

発端は1990年の8月2日の事です。フセイン大統領が指揮するイラクは突如
隣国クウェートに侵攻、クウェート側が事態を把握できず、ほとんど抵抗も
していない間にその全土を支配下に収めてしまいました。平和になれていた
クウェートの首脳は深夜イラク軍の越境の報告を受けたものの、明日起きて
から対策を考えると言って寝てしまったといいます。しかし起きた時には
国土が全て失われていました。

この事態に対して国連の安全保障理事会は緊急に会議を開き6日イラクを非難
するとともに速やかにクウェートから撤退するよう強く勧告しますが、8日
イラクはクウェートの併合を発表しました。

デクエヤル国連事務総長がアジズ・イラク外相と度々会談し、またフランス
のミッテラン大統領やロシアのプリマコフ元連邦会議議長、アメリカのベー
カー国務長官などもイラクの説得にあたりましたが、結果は芳しくありませ
んでした。

イラクは当初偶然その時点でイラクに滞在していた西側一般人を人質として
拘束する旨を発表。これに対しても日本ではアントニオ猪木参議院議員など
各国の多くのレベルの人たちが働きかけて、少しずつ開放させていきました。
しかし人質は12月までになんとか全員開放されたものの、イラクは相変わら
ずクウェートから撤退する意志は全く見せませんでした。

国連は何度か期限付きでイラクに撤退を要求し、従わない場合は武力行使も
容認するとの安全保障理事会の決議をまとめます。そして最後の期限が1月
15日に切れてしまいました。それから24時間もすぎていないこの時刻、アメ
リカのブッシュ大統領は攻撃を決断しました。

ここで多国籍軍というのは微妙な位置にあります。本来はこういうところで
は国連軍が出ていくべきなのですが、国連軍を編成するには安全保障理事会
の常任理事国であるロシア・中国などの同意が必要です。これらの国はイラ
クに対する武力行使には慎重な態度を見せていました。そこで苦肉の策とし
てアメリカは安全保障理事会で玉虫色の決議を行い、有志の国を募る形で多
国籍軍を編成しました。その中心となったのはアメリカ・イギリス、そして
クウェート軍などでした。クウェート軍の兵士たちはイラクが攻めてきた時
に何もできなかった自分達にかなり怒って燃えており、率先して危険な前線
に出ていきました。

また、エジプト・モロッコ・シリアも「アラブの問題はアラブの手で解決し
よう」という趣旨から「アラブ合同軍」を編成し、多国籍軍に協力しました。

この作戦全体を指揮したのはアメリカのノーマン・シュワルツコフ陸軍大将
とコリン・パウエル統合参謀本部議長(現・国務長官)です。多国籍軍は初め
にレーダーに捉えられずに低空を飛んで標的をピンポイント攻撃できる巡行
ミサイル「トマホーク」を使ってイラクの拠点を徹底的に破壊。それに続き
F15イーグルやステルス戦闘機F-117で完全にイラク・クウェートの制空権を
確保しました。そして1月後の2月24日には地上軍を展開させて、イラク軍を
総崩れに追い込みました。イラクは地上戦開始の3日後27日、クウェート併合
の無効を発表、戦争の行方は確定しました。

多国籍軍の攻撃の様子は、現地から時々刻々とテレビで公開され、西側諸国
ではあたかもテレビゲームでも見ているかのように、多国籍軍の戦果が報告
されていきました。(*1)

イラクの兵士たちもアメリカやイギリスの兵には徹底抗戦をしましたが同じ
アラブの同胞であるエジプトやシリアの兵士たちを前にするとすみやかに
投降し、無益な戦いをできるだけ避けました。

イラクは当初問題をすり替えるためにイスラエルに大量のミサイルを打ち込
みましたが、イスラエルは普段なら必ず報復するところを懸命に我慢し、イ
ラクの思惑通りには踊らせされませんでした。

多国籍軍はイラクが負けを認めると、ただちに積極的な攻撃は停止しました
のでイラク軍の主力は温存されることとなり、この結果フセイン政権は延命
可能となり、イラク情勢はこのあと10年間硬直したまますぎることになって
しまいました。攻撃停止命令があと2~3日あとに出ていたら、フセイン政権
はすぐにも倒れていたかも知れません。むろんそれだけ多くの犠牲者も出し
ていたわけで、このあたりの判断はたいへん難しいところです。

日本も国際正義を実行するためであれば、たとえ文官や医務官でもいいから
この作戦に参加すべきだったのでしょうが、国連軍ではなく多国籍軍という
形になったこともあり、国会での同意取り付けが困難として戦争費用のみを
負担。約150億ドル(約2兆円)の出費をしています。ただ、この戦役は国民の
間にいやがおうでも自衛隊の海外派遣に関する議論を呼び起こしました。

  • 回答者:匿名 (質問から20分後)
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