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伊達政宗は、関が原合戦の際、徳川家康から自分の陣営に繋ぎとめる為「百万石のお墨付き」を与えました。しかし、関が原合戦が大勝に終わるや、南部領和賀一揆は政宗の扇動によるものと言う理由で、お墨付きは反故にされました。以後、家康が素知らぬ顔ならば、政宗も「お墨付き」を口にしたことは無かったそうですが、政宗の無念の思いは深く、思わず謡曲「定家」を謡ったと小十郎は言っています。「思えばかかる執念の定家葛の身とはなりて、この御陵にいつとなく、はなれもやらで葛紅葉の色こがれまとわり」と。この謡曲は、ある悲恋物語を謡ったものと記憶しています。ただ最近、物忘れが酷くなり、この悲恋物語は、誰と誰の悲恋物語か思い出しません。解かる方、是非教えて下さい。お願いします。

  • 質問者:匿名希望
  • 質問日時:2009-07-29 00:14:45
  • 1

回答してくれたみんなへのお礼

ご回答有難うございました。ご回答戴いて、定家と式子内親王と言う事を思い出しました。有難うございました。所で、本日のベスト回答は、歴史大好きっ子さんに差し上げたいと思います。いち早くご回答戴いた事と、最新の研究を教えて頂いて、本当に勉強になりました。有難うございました。匿名さんも、非常に参考になりました。有難うございました。お二人ともまたのご回答お待ちしています。お休みなさい。

謡曲ですね。
定家は式子内親王に許されぬ恋を抱くのです。

しかし最近の研究では
式子内親王の秘めた思い人は定家ではなくて
法然上人だったという説が浮上しているみたいです。

  • 回答者:歴史大好きっ子 (質問から8分後)
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この回答の満足度
  
とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

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式子内親王は後白河天皇の第三皇女で定家は鎌倉前期の歌人
京極中納言などと呼ばれた 俊成の子です

  • 回答者:匿名 (質問から12分後)
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とても参考になり、非常に満足しました。回答ありがとうございました。

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